■ 会場に戻る


Cブロック1回戦、「真VS兄(HAS)」事後SS

代筆:ベルナール


『ボクシング』

 それが、僕と対戦相手 ---- 時渡真との対戦種目だった。

 ラウンドは4。
 セコンドはそれぞれ一人。
 決着は、相手が負けを認めるか、10カウントのノックダウン。
 後は ---- グラブをつけて、ひたすら殴りあうだけだ。

 トントン
「どうぞ」

 着替え終わって控え室で出番を待っている僕の耳に、ノックの音が響く。

 ガチャ

「……ちょっと………いいかな……兄くん」
 入って来たのは千影だった。
「別にかまわないよ。でも、どうしたんだい? 一人なのか?」
 他の妹達の姿はない。
「ああ……実は………私が…兄くんの…セコンドに……なったんで…ね……」
「そういえば、セコンドは一人だけだったな」
 千影はゆっくりと頷いた。
「そう……妹たちの中で……私がセコンドをやることに……決まったんだよ……」
「ふーん。でも、よくあっさり決まったな」
 首を傾げる僕に向かって、千影はニヤリと笑う。
「……聞きたいかい? ……兄くん…」
「…………いや、やっぱり止めておこう」
 世の中には、知らない方が良い事もあるというしね。うん。
 千影は表情を元に戻し、空いているパイプ椅子に腰を下ろした。
 そのまま、黙って僕を見ている。
 やがて、少し顔をうつむけ、まるで独り言のように囁いた。

「兄くん……私は………兄くんに……『勝って欲しい』なんて言わない……」

 えっ!?

 僕は目を丸くして千影を見つめる。
 千影は顔を上げ、はっきりとした口調で続けた。

「私は……兄くんに……後悔しない試合をして欲しい……」

 それっきり千影は黙ってしまったが、僕には十分だった。

 そう。そうだな……
 負けて後悔したくはない。
 そのために、僕は、きっと真に勝ってみせる。

 僕は、立ち上がって、控え室の扉を開ける。
「さあ、行こう。戦いの場が僕らを待っている」


 千影を後ろに従えて、試合会場へ足を踏み入れる。
 その瞬間、ぎっしりとつまった観客から大歓声が湧き起こった。
 中央にはリングがあった。
 四方からスポットライトを浴びて光り輝いている。
 歓声の中をリングへ近づいていく。
 真は、既にその中にいた。
 僕は、ロープをちょっと持ち上げ、リングへと上がる。
 歓声がひときわ大きくなる。
 その振動が足からズンズン響いて痛いほどだ。

 軽くフットワークの調整をしていた真は、足を止め、僕を見つめる。

 そして、ニヤリと笑った。

 真の方は、いつでも戦える準備ができている。
 僕も、もっと集中力を高めないと……

 と、その時。

「お兄ちゃま! がんばってーーーーっっ!!」

 リングのすぐ側から、歓声の壁を突き抜けてくるかのような通る声が上がった。
「ああ、がんばるよ花穂」
 真が振り返って、その声に応える。
『花穂』と呼ばれた、真に声をかけた女の子は、真のセコンドだった。
 その女の子は、両手を胸の上でギュッと握り締め、心配そうに真を見上げている。
「お兄ちゃま、大丈夫だよね。無事に花穂のところに帰ってきてくれるよね。大怪我なんてしないよね。」
 その表情からは、女の子がどれだけ真の身を案じているか、反対側から見ている僕にさえ痛いほど伝わってくる。
「ははは、心配性だな花穂は。大丈夫。たいした怪我なんかしないさ。心配するほどじゃないよ」
 真がグラブのまま、ポンと女の子の頭に手を置くと、その子は目に見えて落ち着いていく。
「う、うん……わかった。お兄ちゃま」
「ほら、花穂、元気出して。花穂の元気な応援が無いと、俺、勝てないかもしれないぞ?」
「ううん! そんなの嫌! 花穂、一生懸命応援するよっ!」
「ほら、その意気その意気。この応援があれば、俺はきっと勝って帰ってくるよ」
「うん!」
 満面の笑顔を浮かべるその子と真から、僕は顔をそっと背けた。

 これ以上見ていたら、きっと戦えなくなる……

 振り返ると、すぐそこに千影がいる。
「どうしたんだい……兄くん」
 千影の表情は、いつもと同じ無表情に見える。
 でも今は、それが逆に僕の心を落ち着かせてくれる。
「いや、何でもないよ。うん」
 さっきまでの動揺を悟られないよう、平静を装って答える。
「ふむ……そうかい……」
 納得したかのようにほんの少し首をかたむける千影。
 しかし、次の瞬間、僕の目を見つめニヤッと笑った。
「でも……あの様子を見てしまったら、戦えなくなる………そうだろう? ……兄くん……」
 千影の目は全てを見透かしていた。
 隠す事はできない。
 僕はゆっくりと息を吐いた。
「そうだ…… 僕は戦いたくなくなってくる。真と戦うことで、あの女の子を悲しませるのが怖いんだ」
「…………」
 千影は、真面目な顔に戻り、僕を見つめたまま押し黙った。
 僕は、千影のそんな不安を吹き飛ばすように、できるだけ力強く続ける。
「でも、安心して。大丈夫、僕は戦う。千影達のために、きっと勝って来るよ!」
 笑ってガッツポーズをとる僕を見て、千影は目を伏せた。
「……ありがとう……兄くん」

 ……おかしい。
 僕は不安を感じた。
 言葉とは裏腹に、その様子はとても嬉しそうには見えない。

「……でも、私は………悲しいよ……」
「えっ!? どういう意味かい!?」
 僕の驚きをよそに、千影はゆっくりと顔を上げる。
 その瞳には、悲しみ ---- そして、怒りが入り混じっていた。
「兄くんは……私達のために戦ってくれると言った………でも私は…兄くんには、私達のためではなく……兄くん自身のために戦って欲しい……… 私達と兄くんは『兄妹』なんだ。………私達は、一方的に守られるだけの存在には……なりたくない……」
 ハッキリとした口調だった。

 僕には、そんな千影達の気持ちがわかっていた筈だった。
 でも、僕は無意識のうちに目を背けていた。
 妹達を、いつまでも自分の目の届くところに留めておきたかった。
 いつだって、妹達に較べて、自分の方が強いという意識があるからだった。

 あっ!

 そこまで考えて、僕は気付いた。
 さっき僕は、『真と戦うことで、あの女の子を悲しませるのが怖い』と思った。
 真を傷つけるということは、もう既に、勝つ事を前提に考えているということだ。
 僕は、真を見くびっていたんだ。
 真は、見くびって勝てる相手なのか?
 違う! 条件が一緒ということは、全力を尽くさないと勝てないということだ!

 戦おう。
 そして、全力を尽くす。
 妹達のため………さらに、何よりも自分のために。

「決着がついたようだね………兄くん」
 全てを見抜いているかのような千影のセリフに、僕は小さく、しかし力強く頷いた。
「ああ。もう大丈夫だ」
 返事はそれだけで十分だった。
 少しだけ目を細めた千影は、ちょっとはにかんだ。
「なら……私から、かける言葉は一つだけだ………………がんばって…」
 そのまま、千影は恥ずかしそうに横を向いてしまう。
 僕は、そんな千影の姿を目に焼き付けると、決意を新たに真の方に向き直った。

 リング中央には、既にレフリーが現れていた。
 諸注意が終り、いよいよ第1ラウンドの開始だ。
 周囲を埋め尽くした観客の歓声が最高潮に達する。

 素人同士の対決では、ディフェンスなどという洒落た事はできない。
 とにかく、攻撃の多い方が勝つ。
 となれば ---- 先手必勝!

 カーン!

 ゴングと同時に、僕と真は、同時に相手に向かってダッシュする。

 くっ! やっぱり真も、同じことを考えたか!

 僕のパンチが真の顔面にヒットした瞬間、真のパンチも僕の腹に衝撃を与える。

 う……痛い……

 僕は、腹部を押えて、思わず二、三歩後ろに下がる。
 真は真で、顔を痛そうに押えている。
 僕は、痛みに耐えながら、しゃにむに真の方に突っ込む。 
 それに気づいた真が応戦する。
 もう、相手に注意する余裕なんて無い。
 とにかく、ひたすら一発でも多く相手を殴るだけだ。

 殴る!

 殴る!

 殴る!

 僕と真の実力には差は無かった。
 1ラウンドが終わる頃には、同じくらいボロボロになりコーナーに戻る羽目になった。
 ラウンドが進んでも状況は一向に変わらない。
 お互い傷が増えるばかりで、決定的な一撃を与えるまでに至らない。
 このまま決着がつかないんじゃないかと思った矢先、それは起こった。

「しまった!」

 真が足を滑らせて、大きくバランスを崩した。

 ここしかない!

 僕は、無我夢中で真にパンチを打ち込んだ。
 力の限り殴りつける。

 ここで一気に勝負をつける!

 ひたすらパンチを打ち込んでいたが、ふと我に返る。
 気がつくと、勝利は目前だった。
 一度に大量のパンチを食らわされた真は、もう立っているの不思議なくらいフラフラだった。

 後、一発で勝負を決められる。

 僕は、勝利を決定づけるパンチを放とうと拳を引いた。
 その瞬間、ふと不安がよぎる。

 今の真は、とても受身が取れる状態じゃない。
 もしかして、このパンチは、取り返しのつかない事を引き起こしてしまうかもしれない。
 ……そうだ。もう勝ち目が無いことは真にもわかっているだろう。だったら、そんな危険な事をしなくても負けを認めさせた方がいい……

 僕は引いた拳を静かに下ろした。

 周りの観客からは驚きの声が上がり、次の瞬間、静まり返った。

 どれぐらい静かだっただろうか。
 不気味なほどの静けさの中から、徐々に戸惑いとざわめきが浮かび上がってくる。
 そのざわめきは、次第に大きくなり、いつしか怒りへと変わっていた。
 観客席のあちらこちらから、叫び声が聞こえ始めた。

『倒せ!』
『殴れ!』
『決着をつけろ!』

 騒ぎは次第に会場全体に広がり、観衆は口々に叫び出す。
 バラバラの言葉が、だんだん一つに集束していく。

『殺せ!』
『殺せ!』
『殺せ!』

 まるで、観衆全体が一つの意志を持っているかのような大きなうねりになって行く。
 人々は、親指を下に出した握りこぶしを振り上げ、それを大きく振る。
 淑やかそうな令嬢、礼儀正しそうな老紳士、老若男女もう区別は無かった。
 その全ての眼が訴える。

『殺せ!』

 全てが巨大なプレッシャーとなって僕に圧力を加える。
 真に最後の一撃を放て、と。

『殺せ!』

 僕は、みんなの意志に背いていいのか?
 いや! 許してはならない行為だ!

『殺せ!』

 これは皆が求めることなんだ。
 僕が真をたとえ再起不能にしたとしても、それは、ただ皆の願いをかなえただけだ!

『殺せ!』

 僕には他に選択肢は無い。
 僕がたとえ嫌だと思っても、それに逆らうことはできないんだ。

 ……いや、僕は本当に嫌だと思っているのか?

 本当は、責任を取るのが怖いだけじゃないのか?
 観衆の声を都合よく大義名分にしているのではないか?

 そうだ。
 僕は最後まで勝負をつけなければいけない。
 ちゃんと、この手で!

『殺せ!!』

 最高潮に達した観衆の声に応えるように、僕は最後の一撃を見舞うべく、大きく拳を振り上げた。
 その瞬間、突き刺すような鋭い悲鳴が、歓声を引き裂いた。

「もういやぁぁーーーーっっっ!!!」

 僕の視界の下の方に黄色い何かが放り込まれた。

 タオルだった。

 悲鳴を上げたのは、真のセコンドの花穂と呼ばれる女の子だった。
 タオルを投げた姿勢のまま、眼に涙を浮かべながらも、僕をキッと睨みつけている。
「もういいよ! これ以上お兄ちゃまを傷つけないで!!」
「花穂! 余計なことを……するんじゃない………まだ俺は…負けていない……」
 さらに何か言おうとした女の子の言葉を、真の苦しげな声が遮る。
 真は、辛そうに足を振り上げタオルを蹴る。
 いや、蹴ったつもりなのだろうが、今の真の力では、床に落ちたタオルに足を当てることすら難しく、その足は、空しくタオルの横をすり抜けていった。
「で、でも、お兄ちゃま……」
 心配そうに真を見つめる女の子の瞳を、真は懸命に首を動かして受け止める。
「大丈夫だ………俺はまだ……戦える」
 言い終わると、再び僕の方へ向き直る。
「さあ……勝負、再開…です…」
 しかし、僕は動けなかった。
 今度は、責任を取るのが怖いからじゃない。
 あの子の気持ちを知ってしまったからだ。
 そんな僕の様子を見て、真は少し顔を歪めて笑う。
「…どうしたんです………掛かってこないんですか?……だったらこっちから……行きますよ……」
 だが、威勢の良いセリフとは裏腹に、真は一向に掛かってこない。
 いや、真には、もう掛かってくるような力なんて残ってないんだ。

 僕は……どうすればいいんだろう……

「お兄ちゃま!」
 再び、女の子の叫び声が、僕の耳に響く。
 真は、もう一度、ゆっくりと女の子の方に顔を向ける。
「……花穂……黙っていろと…」
「もうやめて! お兄ちゃま、十分に戦ったよ。これ以上なんて無理だよ!」
 女の子はロープ握り締めて必死に叫ぶ。
「……いいや、勝負は…これから…」
「ううん! お兄ちゃまがもう戦える状態に無いことは、お兄ちゃま自身が一番良くわかっているはずじゃない!」
 それに答えた真の口調は、穏やかだが毅然としていた。
「俺は……花穂に……勝って帰ると約束した……だから……俺がどうなろうとも勝たなければ……」
 女の子はロープを強く握ったまま、真を厳しい顔で見上げた。
「花穂は……花穂は、確かにお兄ちゃまを応援してる。勝って欲しいとも思ったよ…… でも……でもね、お兄ちゃま。花穂は……お兄ちゃまがボロボロになってまで勝って欲しいなんて思わないよ…」
「……花穂?」
「もし……もしも、お兄ちゃまがどうにかなっちゃたら……花穂…すっごく悲しい……お兄ちゃま! もう、花穂を悲しませないで欲しいの…………お願い…お兄ちゃま……」
 女の子は俯いた。
 そして……そのまま崩れ落ちた。

 その様子を呆然と見つめていた真は、ちらっと足元のタオルに視線を走らせた。
 フッと息を抜いた真は、口を開いた。

「レフリー……俺は……負けを認めます…」

 その瞬間、僕の勝利が決定した。

 真がゆっくりと近づいてくる。
「あなたの……勝ちです………最後は…見苦しい点をお見せして……すみません……」
 そういって自嘲気味に笑う真に、僕は答えられなかった。
 僕には、真を責めたり笑ったりする権利なんて……ない。
 真は、フラつきながらも女の子の方へ戻っていく。
 女の子は既に立ち上がっていたが、涙の跡を隠そうともせず、心配そうな顔で真を見上げる。
「お兄ちゃま。花穂、お兄ちゃまになんて……」
「ううん。言わなくても…わかってるさ……」
 さっきまでとは全く違う優しい声だった。
「うん……でも、花穂……」
「いいんだよ……さあ、帰ろう……」
 グラブをつけたままの手を、ゆっくり……ゆっくり伸ばして、女の子の頭の上に置いた。
「うんっ!」
 にっこり笑ったその子の顔は、試合中には決して見せなかった明るい笑顔だった。


 僕と千影は控え室に帰った。
 控え室の椅子に崩れ落ちるように座り込む僕の前に影ができる
 顔を上げると、千影が立っていた。
「兄くん……勝利、おめでとう」
「あ、ああ……」
 勝ったとはいえ、僕はとても喜ぶような気分にはなれなかった。
「どうしたんだい……嬉しくはないのかい?」
 千影が心配そうに僕の顔を覗き込む。
 僕はゆっくりと息をついた。
「僕は……真より、兄として優っていると言えるのか……」
 試合前に千影と交わしたセリフが脳裏をよぎる。
「僕は、決して後悔しないためにも全力を尽くすと決意したはずなのに、最後の瞬間、怖くなって打ち込むことができなかった」
 観衆の『殺せ』という叫びが耳に蘇る。
「しかも、観客からプレッシャーを受けると、今度はそれを口実にしてしまった」
 千影は、僕をじっと見たまま答えない。
「僕は自分のため、妹のために戦った。いや、戦ったつもりだった」
 僕は、唇の端を歪めた。
「でも実際はどうだ。結局、決意はフラフラしていて、一貫性も何も無い。それに較べたら真の方がよっぽど一本芯が通ってる……」
 いつの間にか僕は俯いていた。
「真は強いよ…… 僕よりもずっと…… でも勝ってしまったのは僕だった……本当に良いんだろうか……」

「兄くんは……たしかに弱い……」

 千影の声に、僕は頭を上げた。

「でも……兄くん、弱さを自覚できること……それも立派な強さなんだよ」

 そうか……たしかにそうかもしれない……
 僕の心にのしかかっていた重石が、スッと軽くなる。
 僕は、千影に救われたんだ。

「……ああ……そうだな……」

 僕の返事を聞いて、千影は僅かに表情を緩ませた。
 それは千影の最大限の笑顔だ。

「さあ行こう……兄くん。次の試合が……待っている……」

 千影は控え室の扉を大きく開けた。

 〜終〜


あとがき
 えーと……まずは、HASさんとシャインさん、ごめんなさい!
 時渡真は、超楽天家という設定を活かすことができず、また兄(HAS)の方も、しっかり者とか自分を犠牲にするという設定を活かせませんでした。すみません。
 結局、両方の兄の性格がどうしてもつかみきれなかったので、わたしの頭の中でだいぶ再構成してしまいました(汗)
 そこで、読者の皆さんは、申し訳ないのですが、ここに出てくる時渡真と兄(HAS)は、それぞれの作者が意図されてるキャラクターとは全くの別人で、あくまでもわたしから見た時渡真と兄(HAS)ぐらいに考えてください。すみません。お願いします。
 それから、ご依頼くださったHASさん。次の対戦間際になってしまいまして、本当にごめんなさい。

 ついでに、試合途中での真の状態ですが、通常のルールならとっくにTKOが宣告されて試合は終わっていると思います……(汗)

 2002年5月5日発表

■ SS一覧へ

■ 会場に戻る